やまねこのたからばこ

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【映画】「天使にラブ・ソングを…(Sister Act)」公開から30年、人々はいまだ「聖域」に留まり続ける。

※当然のことながらネタバレを含むため、未視聴の場合は閲覧に注意されたい。

 

 

初見は確か学校で英語の授業で見たような気がする。

 

現代ではどうなのかわからないが、やまねこの学生時代の英語教師はなかなか熱心な先生で、洋画を授業の中で上映して、そこに出てくる英語や英単語についても触れたり、もちろんストーリーについても一緒に教え、感想を言い合うなどなかなか先進的な(たぶん)授業をされていた。

 

他にも、「We Are The World」の映像を使って英語の歌詞を翻訳したり、登場する歌手に教師自らがキャッキャしたりしていた。

 

まだ子供だったやまねこにとってもそれは楽しい授業で、大切な経験だった。だからこそこの映画自体にも強い印象が残っていた。

 

そんな経緯もあって、アマプラで配信されていたので再視聴してみた。

 

やっぱり良いなぁと思われる一般的な「見どころ」と、自分なりに考えてみたテーマがいくつかあったので、もはや不朽の名作だと思うこの作品にあらためてレビューをするという暴挙に出たわけだ。

 

ざっくりとしたあらすじ(要るか?)としては…

 

ネバダ州リノのクラブ『ムーンライトラウンジ』で歌う黒人歌手デロリス(演:ウーピー・ゴールドバーグ)が主人公。クラブということもあり、ややダークサイドな人々が当然のごとくいる。デロリスはヴィンスという人物の愛人だが、このヴィンスはネバダ一帯を縄張りとするマフィアのボスだった。

 

ある日デロリスはヴィンスとの喧嘩(ヴィンスが妻と離婚しないことを発端とする)の末、ヴィンスがご機嫌取りにプレゼントしてきたミンクのコート(妻の名前入り)を突き返しにいったところで、ヴィンスが裏切り者を殺害している現場に遭遇してしまう。

 

デロリスはその場を逃げ出し警察に駆け込む。裁判が開始されるまで、デロリスは証人保護プログラムによって、ある場所に匿われることになった。それは、サンフランシスコの「聖キャサリン修道院」。

 

デロリスは、この時代錯誤なほどに厳格で清廉な規則を持つ女子修道院に、「本物のシスター」として潜伏することになるが…?というもの。

 

 

まずは一般的な見どころ。異文化交流とかコーチングとかそのへん。

 

引用:Unsplash

 

「天使にラブ・ソングを…(Sister Act)」は、1992年に公開された映画だ。現代は2025年。すでにレビュアーや映画評論家、批評家、メディア、あらゆる知識層がこの映画をレビューしている。

 

それに各種のプロフェッショナルたちが、この作品に見出した「要素」は語り尽くされていると言ってもいい。なので、誰もが感じるだろうこの映画の「良さ」は、改めて言語化するのも気恥ずかしいところだ。

 

とはいえ、たとえばデロリスと修道院という「異文化交流」と、それによって起こるイノベーションは、この映画を語るうえで欠かせないポイントのひとつだろう。

 

かたや聖書や教義、奉仕に生きがいを見出す修道女たち、かたやあらゆる欲の坩堝ともいえるクラブで、観客を沸かせるエンターテイナーとして奉仕とは真逆の自己顕示に生きてきたデロリス。この両者が合わさるとき、そこにいろいろな変化が訪れるのは不可避だ。

 

でも、異なる文化(性質)が合わさったことによって、両者により良い変化が訪れ、それは両者だけではなくて、それを取り巻くいろいろな場所に波及していったよね、というのがこの映画のキモだ。

 

それから、この映画に「コーチング」の要素を見出すレビューも多分あるだろう。(探してないけど)

 

つまり、聖歌隊を率いることになったデロリスが、聖歌隊のお粗末な合唱を聞いたときのシーンだ。「自分の声と人の声を聞かなければ合唱なんてできやしない」という名台詞は、音楽に限らずあらゆる社会生活に結びつく重要な視点だ。

 

デロリスは聖歌隊メンバーのそれぞれの性質・得意分野を見出し、それに沿って担当する音域を分けた。それだけでなく、本番の「アドリブ」を発揮させるほどに成長させた。

 

人を「率いる」のがコーチではなくて、人を「活かす」のがコーチだとかなんとか、コーチング論の教材にも登場しそうな要素が本作にはある。

 

それから宗教的な側面で見ると、修道院長(Mother Superior 演:マギー・スミス)は、子供の頃に見たときは「頭が固くて意地悪な大人」のイメージだった。でもまぁ大人になって再視聴すると、別にそうでもないよな、むしろ修道院長のように、修道女を守るんだという役割を担ってくれる人ってめちゃめちゃ有り難いよな、と思ったりする。保守的なリーダーシップの在り方だよね。

 

…とか思ってたら、そもそもマギー・スミス自身が「一番心がけたのは、私の役割がただの意地悪院長ではないと感じさせること。」と語っていて、なるほど意図されたキャラクターだったか、と己の頭の回転の悪さに赤面したものだ。

 

同じく宗教的な観点で言うと、「奉仕」についても論点になってるんじゃないだろうか。教会に閉じこもるのではなくて、社会に対して開かれた行動こそが真の奉仕なのではないかということ。

 

もっとも、たぶん伝統的には教会は「人々が集まる=人々のほうが教会に来る」という図式が出来上がっていたのだろうから、教会が「開かれた場所」であること、修道女たちが町へ出て奉仕活動をするというのは、確かに画期的だったのだろうと思う。

 

このあたりは時代を越えて人々を感動させる強度があるテーマ設定だったと思う。

 

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「個性の集合」をもうちょっとポジティブに捉えたほうがいいよね、現代。

 

「異文化交流」とか「凸凹チーム」が合わさって良いチームになった、という話って、創作物の中ではかなり昔からあるテーマ設定だと思う。

 

「天使にラブ・ソングを…」だってそうだし、たとえば国民的アニメ「SLAMDUNK」だってそうだろう。見ようによっては「TMNT(ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ」だってそうだと思う。スポ根的な視点で考えると、「ガールズ・アンド・パンツァー」だってその路線だろうと思う。

 

映画で言うと、マイケル・ジョーダンの「スペース・ジャム」はこの点がとんでもなく良かった。

スペース・ジャム (字幕版)

スペース・ジャム (字幕版)

  • マイケル・ジョーダン
Amazon

 

あれは当時の技術的にも、娯楽的な意味でも面白い映画だったので、今度レビューを書く。

 

まぁ要するに、「個性の集まりが強い、人々が集まる場では、単一の強さよりも多様性を持ったチームこそが強度を持ちうる」という視点は、昔から「良いものである」とされてきたわけだ。

 

のだけど、そのテーマが何十年も繰り返し、形を変えて主張され続ける理由は何かというと、要するに「実現できてないだろ」という前提があって、それに対する「カウンター」として創作物の中で描かれているのではないか、と思うわけだ。

 

アニメや映画の中の登場人物は、個性が強いチームメンバーの、個性ゆえの困難や失敗、リスクを甘受する強さがある。それは脚本がそうなっているからだ。

 

しかし、いつの時代も人は、他人の個性を受け入れる強さを、忍耐力を備えている人ばかりではない。

 

自分の個性は受け入れてほしいが、他者の個性は受け入れられない。衝突、排除、そして断絶の繰り返しだ。

 

現代の社会を見ていて、まさにそうだと思う。

 

たとえばビジネスの場面に学歴を持ち出して、「旧帝大以下は高卒と同じ」とかいう過激な発言があったかと思ったら、今度はその中でも文系はダメで理系こそが学問だとか、さらなる分断を招こうとする。

 

ブルーカラーはだめでホワイトカラーがどうだとか、医者の中でも救急と外科は偉くて美容や皮膚科はだめだとか、男だ女だ、年代がどうだと、とにかく人間はグループ分けが好きだ。

 

おまけに今日では「日本人かそうでないか」「迷惑をかける奴かそうでないか」をジャッジしたい人々の声がSNSに溢れている。

 

やまねこは、あらゆる属性の人があらゆる特性を持ってこの世を作っていると思っているので、特定の属性を排除しようという話は基本的にNG扱いだ。(伝染病を隔離病棟に移して治療するみたいな話は別ね)

 

過去にこんなポストをした。

たとえば苦手な人嫌いな人がいるとして
その人が消えてしまえばいいとココロで思うのは、まぁそういうこともあるもの。
だけどそれを公に「排除していい」と表明することとは天と地ほどの差があるのよ。
関わりたくはなくても、どこかで生きていてくれていいし
好きではなくても、その人も社会の一員。

— やまねこ (@yamaneko_vt)

 

 

外国人だろうが土着の人間だろうがそこにいていいし、社会にメリットをもたらす人も、デメリットをもたらす人も、「そこにいていい」。ただし、ルールに反すれば相応の罰がある、それだけのことだ。

 

人間の中にはもともと他者とうまくやれない人だっているし、攻撃的な人もいる。一方、倫理的な人もいるし、自分の意思を表明できない人もいるだろう。そういう人たちが寄り集まって社会を作ってるわけだ。

 

博愛主義者になれってんじゃなくて
「ある属性の人をみんなで排除しようぜっていう社会的な「いじめ」に参加するの?しないの?」
っていう、シンプルな話だよ。
歴史を見てもそうだけど、社会的ないじめは政治家や有力者だけじゃできなくて。
実行者は「善良だったはずの市民たち」なんだよねぇ。

— やまねこ (@yamaneko_vt)

 

 

だから、排除するんじゃなくて「うまくやる方法を考えよう」と常に思ってる。眼の前にいる人が自分に対して攻撃的なら、その攻撃的な行動をやめてもらうだけでいい。消し去る必要はない。

 

やまねこはイジメがキライなので、みんなで排除しようぜって話には乗れないなぁ。
外国人も病気の人も、金持ちも貧乏人も、ニートもバリキャリも、ときには宇宙人もUMAもひっくるめてこの社会で物語を創っていくんだろうが。
そっちに参加したいでしょ、どう考えても。

— やまねこ (@yamaneko_vt)

 

 

聖域に閉じこもることは「外部を排除する」ことと同じだ

 

 

修道院長の考えは、「内部にいる人を守ろう」とする使命感に根ざしている。

 

修道院長自身はおそらく排外的であるとか、差別的であるわけではない。彼女はただリスクを避けたいのであって、彼女なりの最善な手段なのだろうと思う。

 

しかし、それが修道院長ほどの柔軟性を持たない人間に、その方法だけが伝わった場合の悪影響が問題だ。つまり、教会を「聖域化」してしまうということだ。

 

教会は「聖なる場所(セイクリッド・プレイス)」であってよいが、「聖域(サンクチュアリ)」であるべきではない。守ることと閉ざすことは、似て非なる行為だ。だが多くの人は、その差を直感的に見分けられない。

 

「ウチ」と「ソト」を分けるための便利な道具として、かつては城壁が、結界が作られた。現代でもなお、国境をゲートで封鎖するなど、人間は内外を分けるのが本当に好きだなと思う。

 

だけど意味があるだろうか?日本はかつて海を境に、日本国内と海外を分けて国を閉鎖したが、外部からの来訪者によって門を開き、その結果発展した。ソトの人間は敵だと国民に教え、莫大な死者を出す戦争を始めて敗北し、その後にやっぱり発展した。

 

ウチにこもり、ウチの中の伝統や歴史だけを見つめて恍惚として、ソトは野蛮だ、ソトは危険だと教えるやり方は、要するに「因習村(古くからある人里離れた村に残る邪悪な慣習)」だ。

 

「聖域の中は安全であり、その外は危険」、「聖域の中こそ尊く、その外はどうでも良い」この考え方は、聖域外の人間を排除する、極めて排他的な考え方に繋がりうる。

 

そして多くの場合、「聖域の中」で起こったことについては、「当然のこと」「仕方ないこと」という認識に陥りがちだ。

 

聖域化された日本の高校の「野球部」の中で何が起こったか、「相撲部屋」の中で何が起こったか?それは外部から見れば完全に陰湿な暴行事件であり、性的虐待であり、そして犯罪だった。

 

もしも日本がずっとウチとソトを分け、ウチにこもる国だったなら?

やまねこが「天使にラブ・ソングを…」に出会えたのは、そこに壁も門もなかったからだ。

 

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デロリスは「服」によって修道女となったのか?

 

もし、あなたが町を歩いていて、警官の制服を着た二人組に出会ったなら、あなたはその人たちを「警官である」と判断するだろう。ポケットに入れていた手を出し、視線を迷わせるのをやめ、にこやかに通り過ぎるだろう。

 

もし、あなたが町中のベンチに座っていて、白衣と眼鏡を身に着けた人が隣に座り「あなたは顔色がよくない、循環器系の疾患の疑いがある」と言ったら、あなたはその人を「医者である」と判断するだろう。

 

服装(ユニフォーム)は、これほどまでに人の属性の判断に影響を与える。本当は彼らはその衣装を着て遊んでいるだけのトラック運転手だったかもしれない。場合によっては、ごく親しい友だちであったかもしれない。顔を見なかったから分からなかっただけで。

 

デロリスがパブに赴くシーンでは、パブの客たちはデロリスを「修道女」だと判断した。それは彼女が身につけていた尼僧服のためだ。外見は言葉を持たないが、外見は語る。人は沈黙する外見に、勝手に物語を与えてしまう。

 

しかし、視聴者はデロリスが本当は修道女ではなく、クラブの歌手であることを知っている。修道女のような世間知らずではなく、夜の町でパブの客をあしらうことなど造作もない、ということも。

 

だからここはコメディシーンとして成立するわけであるが、「服」を「外見」と結びつけてみるとどうだろうか。相手の見た目によって、人はその人をどんなふうに判断するだろうか。

 

2mを超える長身で、太い腕を持ち、刈り上げた頭髪を持つ青年。しかし、彼は実はベビーシッターかもしれない。

フリルの付いた白いワンピース、細身の身体、穏やかな微笑を浮かべる女性、しかし、彼女は実はデルタフォースに所属する歴戦の兵士かもしれない。

 

外見による差別…とまでは言わないが、それはやはり「偏見」に過ぎない。デロリスに「サウンド・オブ・ミュージックでもかけてやろうか?」と問うたパブの男は、やはり軽率だった。しかし、私たちは本当に彼と同じ過ちを犯していないと断言できるだろうか?

 

デロリスは服によって修道女となったのではない。

教会を去っても、日々の奉仕活動をしなくなっても、そして修道服を脱ぎ捨てても、デロリスはすでに修道女だ。それは彼女の魂が聖なるものであろうとしたためだ。

まとめ

 

不朽の名作、すでに語り尽くされた物語。それでも感想を書こうと思ったのは、この物語が発していたメッセージを、2025年の現代においてもいまだ人々が実現できていないと思ったから。


外からくるものは怖いもの、悪いもの。内にあるものを危険にさらすもの…この恐怖心、いや、妄想から、人はいつ開放されるだろうか。

 

デロリスは教会にとって福音ではなかったかもしれないが、彼女は聖歌を歌った。

 

デロリスは修道女であろうとしたのではないが、デロリスは人々と触れ合い、楽しませ、笑顔にすることを望んで実行した。

 

そうした行動が、教会の「内側にいた人々」に確かな変化を与えて、そしてより良い未来を描きつつある。

 

この映画が公開されておよそ30年、人々がまだ学ぶべき点は多い。