やまねこのたからばこ

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【漫画】「マザーパラサイト(1)」涼太は「母という記号」を探す。「母」もまた何かを。

※当然のことながらネタバレを含むので、未読の場合には閲覧に注意されたい。

 

 

確かSNSの広告で数ページを読み、気になって購入した漫画だったと思う。

 

ざっくりとしたあらすじは…

 

児童養護施設でテレビに見入る男児「涼太」の過去シーンから始まる。本編はその数年後、アパートで朝食の準備をする母親らしき女性(早苗)と、あの「涼太」が一緒に暮らしている場面が描かれる。

 

冒頭のシーンはどうということもない、「母と息子」の他愛もない朝の一幕に見える。ところが、涼太が朝食の魚に入っていた「骨」を見つけ、その骨の危険性を淡々と語り出し、場の空気が一転する。

 

「母」は涼太に必死に詫び、「お母さんでいさせてッ!!」と詰め寄る。

 

涼太はその場を「冗談」として受け流すのだが、登校途中にメモ帳に何かを書きつけている。それは、「母」である女性の「失点メモ」だった…という流れで物語が進行する。

 

 

「母親ってなんだ?」という思考に陥ることは、この漫画の「思うツボ」かもしれない

 

 

およそこの世の人間に「母親が存在しない」ことはあり得ない。それは養母か実母かという問題ではなく、生命体としての人間は母親なくして生じない。

 

…のだが「産む」こと「育てる」こと「家族である」ことにはそれぞれ微妙にグラデーションがあるように思う。極論、産むだけ産んで、養育や家族としての役割は果たさなかった/あるいは果たせなかった母親だっているだろう。それを「母ではない」と表現するのは(倫理的な問題を脇に置くとして)酷だ。

 

ということは、まぁ暴論とも言えてしまいそうなところだが、母親としての自覚を元に家族に関わったのなら、それはもう母親と位置づけられるものなのではないか?とざっくり整理したくなる。

 

いや、そこがこの漫画の主題なんじゃないか?という疑問は当然だ。

 

だが、あえて「ざっくり整理」したくなった理由はきちんとある。

 

涼太が燃やす執念は「母親の記号」だ

 

あくまで1巻読了時点での感想と思ってほしいのだが、というエクスキューズを入れつつ。

 

 

涼太が母親(三木早苗)の「失点メモ」を作っているのも、同級生(笠井薫)の母親である「笠井リカ」に執着して、夜中に服を脱がせて詳細にスケッチしたり身体の各部位をメジャーで測ったりしたのも、「母としての行動」を称賛して「母を感じた」のも、その原因は要するに、涼太に「母とは何か」という定義がないことにある。

 

涼太は過去の一瞬の回想からもわかるように、物心付く前に施設に入ったのだろうから、実母の記憶がないのだろう。だから、母親とはどういうものかを外部からの情報源に頼っていて、母を実感したことがない。

 

だから「母親らしい」と思える振る舞い、感情の発露、子への接し方、そして容姿や身体形状を「正解パターン」として認識し、それに合致する女性を母親役にしようとしている、といったところか。

 

あぁコレ、どこかで見たような構造だなと思ったのだけど、「教育ママの逆」なのだ。

 

この場合のいわゆる「教育ママ」というのは、たとえば学業、運動、経験、マナー、人的交流に至るまで徹底的に管理して「理想的な子供」に仕上げようとする類の母親(まぁ父親がそうであるパターンも当然あるが)のことだ。

 

相手を一個の人格として見るのではなくて、その人物が持つ特徴・要素を「記号」に分解して評価し、望ましい/望ましくないという採点が入る。

 

実際のところ、涼太が「母親の失点メモ」に記しているような内容なんて、実母であれば普通にあるような「ありふれた失敗」であるし、それによって「母親たる資格」を失うようなことは起こり得ない。そもそも母親に資格などない。母親たるかは自発的意思と、子との関わりによってであろう。

 

涼太がもし何かを模索するべきであったとするならば「その女性を母親という家族として、いかに関わるか」であって、「母親とは何か」を考えることでも、「この人物は母親たりえるか」を評価することでもなかった。

 

……という指摘はまぁ、あまりにも酷なのだけど、だからこの漫画を「家族ってなんだ?」という視点で読むと、感情が本筋と別レーンに乗ってしまうと思うのだ。

 

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涼太は「サイコパス」なのか?という点

 

この漫画のレビューや感想を読んで気になったのが、涼太が「サイコパスである」とするものだ。

 

やまねこの感想としては「サイコパスっぽい要素はあるが、違うのでは?」と思ってる。

 

まぁ実はやまねこは2巻以降も読了しているので、この後涼太が重大な事件を起こすことは知っているのだけど、それを加味しても「目的のために手段を選ばない」タイプのサイコパスとは違うように思う。衝動的で感情優位だ。

 

涼太の行動だけを追えば、生後すぐに虐待/ネグレクトの被害に遭った子どもが陥りがちな「脱抑制型愛着障害」の類型に収まりそうな気がする。笠井リカという「よく知らない大人に愛着を求める」行動だ。他の母親に対しても。

 

一方、次巻以降で明かされる「寄生」のための手順と「邪魔者への対応」はこの類型から逸脱する。ただし、もう一点考えるべきは、涼太はまだ中学生であるということ。いかに大人びて見えて知識が豊富であっても、社会規範が正しく内面化されていない可能性がある(更生可能性がある)年代だということだ。

 

つまり、「昭和ヤンキーのように暴力手段を前面に押し出して要求はしないが、必要とあれば暴力に訴える」という短絡的な思考を持ちながら、「知的かつ穏やか・朗らかで人当たりの良い外見」を持つ「愛情に飢えた子」である、みたいなことになるのではないか。サイコパスとは本質的に異なるように見える。

 

「渇望」は涼太だけではない、そこに隙が生まれる

 

「相手の欲を見抜く力」。これは天性の才能なのか、あるいは生き抜くうえでやむにやまれず身につけた処世術かはわからないが…涼太のこの能力は非常に鋭い。

 

1巻時点では「母親」である早苗、彼女は「母親である」という立場への欲があった。
「笠井リカ」は「完璧な母親」「正解の母親」でありたいという欲があった。

 

涼太はそれらの欲を見抜き、絶妙にその欲を満たし、ときに刺激し、渇望させ、それを「与えてくれる自分」を欲するように仕向けた。

 

「アメとムチ」というよりは、孫子の兵法の第十一章【九地篇】にある「先ずその愛する処を奪わば、即ち聴かん」(相手が大切にしているものを手中に収めれば、相手はこちらの思い通りにできる)である。

 

兵書などたぶん読まずして涼太がこの能力を身に着けた経緯は不明だが、この点が「サイコパス」に見えるのだろう。しかし、実のところ心理戦は感情を持つものにしかできない。だから涼太はサイコパスではないと思えるのだ。

 

さらに、ここに「母親とて完璧な人間ではない」という視点を持ち込んで読み進めると、人がいかにして「こうありたい」という思いに囚われるか、それによってどのような自己像を描いていくのかという点が読み取れる。

 

笠井リカはかなり解りやすい部類で、常軌を逸しているように見えつつ実はもっとも理解しやすい人物像だと思えるだろう。

 

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おわりに

 

「母とは何か」という視点ではなく、「涼太は何が欲しいのか?」を分解して読んでみると、「怖い」以外の感想が生まれてくると思える作品だと思う。

 

また、涼太ばかりではなく「母親側」も何かを欲している。それは何か?なぜ彼女らは涼太にそれを求めてしまうのか?…ここも重要なポイントだ。

 

涼太の行動に生理的嫌悪を抱く気持ちは十分理解できるが、とはいえ、1巻を読了すればその嫌悪を無視してでも、結末を知りたくなるだろう。

 

★承認欲求や依存によって、人が崩れていく様子を描いた作品記事はこちら

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