やまねこのたからばこ

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【映画】「TALK TO ME(トーク・トゥ・ミー)」死者の”声”はホンモノか?

※当然のことながらネタバレを含むので、未視聴の場合は閲覧に注意されたい。

 

Netflixで見た。

 

 

ざっくりしたストーリーとしては…

 

母親を自殺で失った学生「ミア(演:ソフィー・ワイルド)」が主人公。ミアは母親の死のショックから、父「マックス」とは疎遠になり、家に帰らず「ジェイド(アレクサンドラ・ジェンセン)」ら友人たちとのホームパーティに入れ込んでいる。

 

そのパーティの中で、ミアと仲間たちは「切断された人の腕が中に入っている」といわれる呪物を使った、SNSで話題となっている降霊術のような遊び(#90秒憑依チャレンジ)をすることに。

 

ミアは自ら呪物を使った憑依体験に立候補し、恐ろしい死霊を目の当たりにするが、制限時間である「90秒」を越えなければ、彼らにとっては「危険なくスリルを楽しめる遊び」の感覚でしかなかった。

 

降霊術にハマったミアと友人たちは再び憑依遊びをするパーティを開催する。そこに参加していたジェイドの弟「ライリー(ジョー・バード)」は、自分も参加したいと申し出る。

 

当初はミアらはライリーがまだ年齢が低いこともあり参加させないようにしていたのだが、50秒なら、という条件でライリーにも憑依チャレンジに参加させることになる。しかし、ライリーに憑依した霊はまさかの…というストーリー。

 

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オカルトが人の心にとって必要となるとき

 

 

心霊・超常現象・未確認動物・宇宙人…場合によっては、宗教の一部もそれに含まれると言っていいと思うんだけど、「常識を越えた何か」に魅入られる瞬間というのが人間にはあるんだろう。

 

エンタメとして、趣味として楽しむ、あるいは学問として研究するぶんにはそれはそれで楽しいと思うのだけれど、そうしたオカルトが自分の世界の中心になってしまうと、いろいろな弊害がある。

 

たとえば神様からバチが当たるからと色々なモノを買い揃えたり、ひたすらオカルトのことを調べ続けたり、そういうのは明らかに不健全だろう。

 

人間の心がそういうオカルトとか、人知を越えた力・知識を求めるときっていうのは、おそらく「不安があるとき」とか「わからないとき」なんだろう。

 

まぁ占いとかカルトにドハマリする人の特徴とかを見てると、同意できる部分もあると思う。基本的に、自信なさげだったり心の中に強いわだかまりを持ってたり、社会や周囲に居場所がない人だったりする。

 

「TALK TO ME」で描かれている「ミア」の状態がまさにそうだと思う。

 

ミアの場合には、「母親の死」という強いストレスと、それに付随して「母親はなぜ死んだのか?」という「わからない点」もあった。

 

そのためにミアは、「母の死の真相を知っている存在があるならそれを聞きたい」という強い欲求を持つに至ったんだろう。

 

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死者が知っているものとは何か?

 

ご先祖さまだったり、亡くなった人の言葉を聞く、というオカルトは別に珍しいものじゃない。

 

降霊術なんて世界中にいろんな方法があるのだし、原始宗教としてのシャーマニズムとか、日本でも恐山のイタコとか、沖縄のユタなんかもそれに含めていいか。厳密には降霊と霊媒師はちょっと違うんだけども。

 

もう少し身近なものにすると、「コックリさん」とか「エンジェルさん」、「権現様」なんて呼ばれるもの(西洋では「ウィジャボード」という類似のものがある)とかも、こういう「人知の及ばない存在に、自分の悩みを聞いてもらう」という意味では共通点を見いだせると思う。

 

ただ、死者を冒涜するつもりこそないが、死者に悩みを聞いてもらうことに、いったいどれほどの意味があるのだろうか?

 

仮に死者との間に意思の疎通ができるのだとしても、死者はもとはただの人間であり、そして死亡した以上はそれ以上の知識の蓄積はないと考えるのが自然だろう。

 

つまり死者に未来予知能力はないどころか、死んだ時点での知識の停止すらありえる。

 

そういう存在に知識面で何かを頼るというのにどれほどの価値を見いだせるのかという点だ。

 

やまねこが好きな漫画/アニメに、小野不由美氏作の「ゴーストハント」がある。

 

 

この「ゴーストハント」の劇中でも、ナルは死者について「基本的に死者が知っていることは死と死後の世界についてだけ」と言及している。その通りと思う。

 

仮に一部オカルトな要素が現世にあるとしても、死者に新たな情報や感情が生じることは考えにくい。

 

だから、生者が死者にもう一度会いたい、会話をしたいというのは、その目的のすべてが「大切な人にもう一度会いたい・話したい」という情緒的・感傷的な意味であり、以上の意味はない。そこにとどまる限り、それ自体は悪いことではない。

 

しかし、その強烈な「死者を求める心」こそが厄介で、実は死者の声であると本人が思っているものは、本人がそう思っているだけなのではないか、というふうにも考えられるわけだ。

 

ミアの前に現れたのは本当に「母親」か?

 

さて、友達との「#90秒憑依チャレンジ」の最中、ライリーに憑依した「母親」を求めて、ミアの精神状態は自覚なく急速に悪化していく。

 

やがて、生者である父親の話ではなく、死者である「母親」の話に耳を傾けるように。このあたりの描写は、すでにミアが死者の側に取り込まれつつあるということを表現しているとともに、「父親の話を信じたくない」「自分が信じた母親の姿が真実であると思いたい」という、ミア自身の願望が表れているように思う。

 

この段階で、「この母親は本当にミアの母親なのだろうか?」という疑念が浮かんでくる。

 

3つの見方がぱっと浮かんだ。

 

①「本当はミアの母親の姿を借りた別の悪霊だった」
②「本当にミアの母親だったが、死霊となったことでミアや父親を害そうとする悪しき存在になった」
③「霊などおらず、すべてはミアの内心に生まれた独り言だった」

 

やまねこの考え方としては、オカルトを肯定するなら①もあり得るがやはりだ。

でもこのあたりは、見た人によって捉え方が変わるだろう。

 

オカルトホラーとしてというよりも…

 

さて、映画の見どころ的なところでいうと、「霊が怖いか」という意味でいうと、それほど怖くない。

 

確かに造形はグロテスクだが、生者に直接手を下すことができないのは霊のある種の「お約束」だ。

 

怖いポイントとしては、ライリーが憑依されるシーン、憑依チャレンジで現れる不気味な死霊の造形あたりか。

 

それから、ラストシーン、ミアがあの状況にたどり着いたことの理由がピンとくれば、ここも恐怖を感じるポイントだ。

 

ただ、個人的には「死霊・オカルトに傾倒してしまう人間の怖さ」の方に本質がありそうな気がしなくもなかった。

 

あと蛇足だけど、「直接人間に手を出したり呪ったりするのではなく、言葉によって人を唆す」という意味で西洋的な「悪魔」っぽさを感じたし、「死霊の姿で人の前に現れる」という意味では日本・アジア的な霊の描き方でもあるなぁと感じた。

 

見て損のない作品。見るべし!