やまねこのたからばこ

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【漫画】ブラック芸能事務所ですが何か?(1) 芸能人の「ほんとう」など誰も知らない

※当然のことながらネタバレを含むので、未読の場合には閲覧に注意されたい。


タイトルに惹かれて購入。

 

やまねこは芸能界に入ったことはないが、この漫画を読んでいろいろ考えさせられるものだなぁと思ったり。

 

ざっくり内容を言うと、芸能事務所「コロッセオ企画」が舞台。芸能事務所とはいっても、一筋縄ではいかない面々で、芸能界における「万事屋」のような扱いを受けている。

 

物語は、「コロッセオ企画」を訪れる女優志望・芸能人志望の女性たちが出会う状況をオムニバス的に描いている、というもの。

 

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私たちは芸能人を「知ったつもり」でいる

 

 

さて、ちょっと本題から逸れるんだけど。

 

テレビや映画、ドラマなどで活躍する芸能人・タレント。まぁそこにグラビアアイドルやお笑い芸人なんかを含めてもいい、いわゆる「有名人」な人々について、私たちはどの程度「知っている」のだろうか。

 

タレントやアイドル・俳優のファンを自称する人たちは、その人のことに詳しいだろう。別に芸人じゃなくても、女優や俳優、アイドルだってバラエティやトーク番組に出演し、様々なエピソードを話す。そしてそれを記憶して、その人物像を描くだろう。

 

「◯◯さんは✕✕が好き」「◯◯の好きな食べ物は✕✕」「◯◯は✕✕にこんなことを言ったから性格が悪い」…と、その人物を評する。

 

しかし、本当にそうだろうか?

 

私たちはテレビに出る芸能人の「ほんとう」を、いくらかでも知っているのか?「知っているつもり」になっているだけではないのか?という疑問が湧いてくる。

 

それが、作中でコロッセオ企画の社長をしている長部の語りにある

 

「この世界はな、カメラの前で脱がなきゃいけないこともある それを全国規模で、いや下手すれば世界規模でさらされることになる」


「もちろん異性との付き合いも制限される」


「己のキャラクターも自分では納得いかなくても、与えられたキャラ、求められるキャラを常にやらなければいけない」

 

というところに表れていると思う。

 

実際、なぜテレビのバラエティやトーク番組は面白くて、素人が喋ると面白くないのか?というと、そこには放送作家の存在や優れた脚本があり、演出家が「おもしろく」演出しているからこそおもしろいわけだ。

 

そこに芸能人個々人のキャラや趣味嗜好は考慮されるかもしれないが、実際のところ「おもしろい」脚本を活かすためには、本人の「本当の話」など必要ない。

 

おそらく、トーク番組で盛り上がるような話をしている芸能人が「本当のこと」を話したら、途端につまらない番組になるだろう。

 

つまり、おもしろいテレビ番組とは、出演者の本心を徹底的に白紙にした上で、放送作家、脚本家、演出家などあらゆる種類の専門家たちの血の滲むような創作の果てにあるのだということだ。

 

しかし視聴者(のうち、いくばくかは)番組内で話された内容を真実だと思い込み、芸能人やタレントの「性格」についてあれこれと話すだろう。そしてその誤った人物像をブログやSNSに投稿し、動画にしてアップする。その何と無意味なことか。

 

このように、タレントや芸能に関わる人物が「番組を盛り上げる」という意味で、まったく内心では思っていないことをやったり言ったりしてでも、視聴者が楽しめるものを作っていこうという話は「推しの子」でも描かれている。

 

 

ちょっと古い番組だが、いわゆる「リアリティ番組」にカテゴライズされるような「ガチンコ!」や「あいのり」「マネーの虎」あたりがそれにあたるだろうか。

 

出演者も「一般人」とされてはいるものの、実は芸人であったり、劇団員であったりするケースもある。テレビ番組がテレビ番組として成立する以上は、ある程度の台本とそれにそって動く能力のある出演者が求められるということだ。

 

いくらなんでも「全てが作り物だから楽しめない」というのはちょっと穿った見方すぎる気もするが、少なくとも視聴者には、テレビ番組を「コンテンツとして制作されたものだ」と理解する能力は必要だ。

 

なぜ必要なのか?それは、コンテンツとして制作されたものだという判断ができなければ、テレビ番組に出演した芸能人が「番組そのままの性格」として認識されうるからだ。

 

その結果何が起こるか。「憎まれ役」を買って出た人物、あるいは憎まれ役と選出された人物にヘイトが叩きつけられることになるためだ。木村花さんの事件は記憶に新しい。

 

コンテンツとして制作されたものだと理解できれば、たとえばトーク番組やバラエティであっても、「番組として面白ければよい」と、たとえば映画やドラマを見るように理解できる。そして、映画やドラマで悪役を演じた人物にヘイトを向ける愚行は犯さないだろう。

 

憎まれキャラにしろ、善人のキャラにしろ、タレント・芸能人と脚本やスタッフは同じ番組を制作するクリエイターチームだ。それに対する敬意は、視聴者として忘れたくないものである。

 

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芸能事務所を訪れる女性たちのそれぞれの行く末

 

さて、本編の話に戻るが…

 

この漫画の描き方は、比較的淡々としている。表情には迫力があるし、大事なセリフを喋るシーンでの緊迫感もよく表現されているが、「しつこくない」。この淡々とした雰囲気は、どことなく「芸能界に入る女性に対する見方」であるようにも感じた。

 

あくまで彼女たちは人間であるが、芸能界においては商品だ。一人ひとりの芸能人に対する「商品としての」思い入れはあれど、彼ら彼女らの人生に共感や同情は不要だ。そういう「割り切り」が、芸能事務所には必要なのだろう。

 

とはいえ、コロッセオ企画の女性社員「神薙」が、枕営業を迷う佐野真衣に対して「一晩じっくり考えてもらって」と返すシーンは、神薙なりの優しさ・誠意だったのだろうと思う。

 

芸能人として売れるための枕営業は、かつては都市伝説のような扱いを受けてもいたものだが、昨今様々な問題が明らかになるにつれ、明確に「存在するもの」と認識されるようになった。

 

売れるための枕営業は唾棄すべき風習だとは思うが、それをしてでも売れたいと思うタレントたちの覚悟もまた、並大抵のものではない。

 

男女問題・性加害問題として社会的課題とすることには異論はないが、それはそれとして、自身の成功のために枕営業を武器として活用した彼女たちの覚悟もまた、安易に貶されるべきものではない。

 

とはいえ、佐野真衣のエピソードは人の夢が破れる瞬間を目の当たりにする。枕営業をしてまで得られた仕事が端役のエキストラ。ここで、佐野真衣の心は完全に折れてしまった。

 

「自分で自分を騙せないような人間に、役者はもちろん、こっちの世界で生き延びることは無理」という神薙の言葉が読者の胸に深く深く突き刺さる。

 

業界に関わる人間を「商品」として扱うことは、別に芸能界に限った話でもない。たとえば、水商売や風俗で働く女性を斡旋する「スカウト」をテーマにした「新宿スワン」も、同じような描き方だ。

 

 

新宿スワンはどちらかというと、スカウトという仕事の本質や、そこで働く女性ばかりではなく、業界や社会の闇と、そこで生きるスカウトの面々の生き様にスポットが当たるので、この「ブラック芸能事務所ですが何か?」とは少し毛色が違う。

 

しかしどちらにも、その業界に入った人々の「行く末」に思いを馳せられるよい漫画だ。

 

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まとめ

 

「ブラック芸能事務所ですが何か?」の1巻では、佐野真衣のほかに二人の人物のエピソードがある。

 

それぞれのエピソードがまだ明確に繋がってはいないが、この漫画はおそらく単純なオムニバス形式ではなさそうな気がする。

 

これからコロッセオ企画やそこで働く面々に、どのような出来事が起こるのか、楽しみになる1巻だった。