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【映画】「牛首村」村の伝承系ホラー、あるいは悲しい歴史。

※当然のことながらネタバレを含むので、未視聴の場合には閲覧に注意されたい

 

牛首村

牛首村

  • 萩原利久
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ホラーものを探している最中に発見して視聴。『犬鳴村』『樹海村』など、「恐怖の村」シリーズの第三段。

 

ざっくりとしたあらすじとしては…

東京に住んでいる女子高生「雨宮奏音(演:Kōki)」は、ある日同級生から「詩音(しおん)」という少女が行方不明になるという心霊動画を見せられる。

 

この「詩音(しおん)」は奏音と瓜二つの顔を持つ少女だったが、動画内ではふざけた仲間の少女から牛の首のマスクを被せられて廃墟のエレベーターに閉じ込められ、そのまま姿を消してしまった。


詩音に並々ならぬ関心を持った奏音は、動画が撮影された富山県の坪野鉱泉へ向かう。
そして詩音の交際相手である倉木将太(演:高橋文哉)と出会い、詩音の家を尋ねることになるが…という話。

 

「村」になにか闇を感じるんだね。

 

まぁコレ言っちゃうとちょっと反発はありそうなものなんだが、やっぱり都心に住んでいる人々からすると、「田舎」「村」というのはなんだかよくわからない、閉鎖的で怖い、というイメージがあるのかもしれない。


村系の怪談とかオカルトもの、ホラーものの大半は、このイメージをベースに恐怖が演出されてる気がするよね。

 

実際のところ、田舎が閉鎖的というのはよそ者を排除したがるみたいな印象があるからだろうけど、それにもちゃんと理由がある。

 

わざわざ都会に住んでいる人が田舎を(観光でもなく、居住とか仕事とかいう理由で)訪れるっていうのは、田舎の人からすると正直理解に苦しむんだよね。都会のほうが便利ってのは田舎の人がいちばん痛感してるから。

 

で、現代でもまぁあるっちゃあるんだけど、一昔前は東京だの大阪だのでヤバいことをやらかした人が、見つからないように田舎に逃げ込んだり、田舎だと見つかりにくいからって田舎を拠点にして別の場所で悪事をしたり、街中で出たゴミを田舎ならバレないだろって投棄したりしたことがあった。いや、いまでも普通にあるか。そんで、そこに巻き込まれるのはいつも現地に住んでいる人々だ。

 

こういうのは、その村とか田舎に住んでいる住人からすると迷惑この上ない。だから都会からわざわざ観光以外の目的でやってくる人に対して、「変なことやってるんじゃないか」「自分たちも巻き込まれるんじゃないか」って懸念から疑う態度が出てしまって、それが結果的に排他的と見られてしまったりするって面はあると思うよ。

 

実際の田舎の闇っていうと、どっちかというとマジで夜道が暗いとかいう意味での闇だったりする。

 

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「牛首」とはなんなのか

 

ちょっと要素の整理。「牛首」っていったいなんなのさというお話。

まぁだいたいの人が考えるように、「牛首」っていうのは「牛の頭」って意味。とはいえ、必ずしも牛首という言葉は、体が人間で牛の頭を持つバケモノ(ミノタウロス)って意味じゃない。

 

日本には神仏習合の神様として、「牛頭天王」という神様がいるんだけど、この神様は「牛頭」という名前のとおり頭が牛。ちなみに祇園精舎(お釈迦様の生誕地でシュラーヴァスティーというところ)の守護神であるとされている。

 

半人半獣って、世界的に見てもけっこう多いけど、妖怪・バケモノ扱いだけじゃなくて神様扱いも全然珍しくないんだよね。しかもアジアだけじゃない。牛じゃないけど、エジプトの「アヌビス」も守護神だし、ギリシャ神話には「ケンタウロス」とか「サテュロス」とかもあるね。

 

ともかく、日本においてはこの「牛頭」という言葉を語源として「牛首」という言葉が生まれたとされている。

 

「牛首村」という名前ではないけど、「牛首紬」という名前の地名は実在していて、これは石川県にある。そんで、本作の舞台となる「坪野鉱泉」というのは富山県にあるスポットで、俗に「北陸最恐の心霊スポット」なんて呼ばれていたそうだ。富山と石川、ともに北陸ということでうまくフュージョンさせて本作を作ったのだろう。

 

さて、「牛首」という言葉にはなんとなくぞわぞわと不気味な語感があるかもしれない。そもそも「首」っていう言葉がよくないのかもしれないけど。実は昔から「牛の首」っていう怪談がある。もうひとつよく似た怪談として、「地獄の牛鬼」とか「牛鬼」って呼ばれてる怪談もあるといわれる。

 

この2つの怪談、何が似てるかっていうと、共通してる要素が「詳細不明」であるということ。その理由として、「あまりにも恐ろしい怪談であるために、聞いた人はみな発狂してしまうか死んでしまう」といういかにも恐ろしいエピソードが添えられている。

 

元ネタとされる同名の作品が1965年に小松左京が出版しているのだけど、これが元ネタでないことは小松左京自身が語っている。彼もまた「もともとそういう小咄があった」という旨の話をしているのだとか。

 

 

さらにさかのぼると、すでに大正15年(1926年)から「牛の首」という名前の怪談はあったのだそう。これはもう都市伝説の域を超えちゃってる。

 

2000年前後のインターネット上では、テレビでの流行と同時に「オカルトブーム」があった。各々が知っている、あるいは創作した怪談を掲示板に書き込み、参加者でそれを怖がったり考察するという流れがあった。その中で、「牛の首」や「牛鬼」という単語を出した者がいたら、「その話はまずい」「その名前を出すな」とレスがつき、話が明らかにならないというのがテンプレみたいになっていた。これと同じやりとりが繰り返されていたのが、いわゆる「鮫島事件」ってやつで、これも後に独自の解釈で映画化されている。

 

ちなみに、「牛の首」「牛鬼」には、「これこそが真相だ」とする説が投稿されるのも通例であり、そうした「偽の真相」のバリエーションは無数にわたる。ちなみにやまねこが目にしたことのある「牛の首」「牛鬼」の真相とは、次のようなものだった。

 

大昔、ある村が飢饉に襲われた。作物が取れず税も厳しい中、村民たちは次々と餓死していった。

そこで村の有力者が集まり、一人の村人の頭に牛の頭を被せてその村人を「牛」として扱うことを決めた。

村人全員でその「牛」を狩り、その肉を分けて食って村は生き延びた。

やがて村は食物が不足するたびにこれを繰り返すようになった。

 

確かに上の説は、「大昔の食糧事情が悪い日本の農村」ではいかにもありそうな、そしてカニバリズム(人肉食)という人類にとってのある種のタブー、そして「それを繰り返すようになった」というオチまでついていて怪談としての出来は悪くない。

 

でもこれも真相じゃない。「恐ろしすぎて聞いた人がみな発狂」するほどの話とは思えないからだ。どっちかっていうとムナクソだ。

 

つまるところ、「牛の首」も「牛鬼」も「鮫島事件」も、「正体がわからない話」であり、本作「牛首村」を含めた後年の作品においてその名を冠したものは、「ひとつの解釈」を示した作品だということだ。その前提でこの作品を見るのがよいだろう。

 

ホラーとしては微妙だが伝承モノとしてはアリ

 

さて、だいぶ前置きが長くなってしまったのだけど、本作の感想としてはこうなる。

 

ホラー映画で何が怖いのか、というといろいろな要素があると思うが、いわゆるサイコな登場人物が怖いという「サイコ系」、幽霊や妖怪、モンスターなどに襲われ無惨に殺されてしまう「パニック・スプラッタ系」、原因がわからず死が確定する「呪い・祟り系」とかが代表的だと思う。

 

「牛首村」は3つ目に該当すると思うけど、主要登場人物に対しての「明確な死」が突きつけられることはなく、脇役がわけもわからず死んでいくというタイプのホラーだ。

 

原典となる「牛の首」の要素にあるような「正体のわからなさ」は、映画においては「説明しない」ことが受け継がれていて、おお、そういうことだったのか、とはっきりわかる部分と、「ん?結局それどういうことなん?」とモヤる部分がある。

 

まぁでも怖い伝承って実はモヤる部分があるからこそ怖いのであって、全部明らかになってしまったらホラーとして成り立たないから、まぁこれはこれで。「きさらぎ駅」を見たときと似たような感覚だ。

 

yamanekolynx-box.hatenablog.com

 

「双子」もいろいろな背負わされてきた歴史がある

 

あと、怖いというより不気味という意味で、「牛首村」には「双子」の要素が加わっている。


これ実は最近の人はあんま知らないのかもしれないのだけど、「双子」を忌避する文化ってかなり根強い。令和の時代ですら、高齢の人の中には「双子は縁起が悪い」「気味が悪い」と言う人もいるし、そういう価値観の中で育ってきた人の中には双子を忌避する感情を持つ人もいる。

 

ドラマとかアニメとかでも、「完全に瓜二つな二人がまったく同じ動作や喋りをする」「完全に瓜二つな二人が、お互いの語りを補完する」みたいな描写がされることがある。例として出すのが適切か悩むが、たとえば「ブラック・ラグーン」ならヘンゼルとグレーテル、「ハリー・ポッター」シリーズでは「フレッド・ウィーズリーとジョージ・ウィーズリー」。あと鑑賞中真っ先に思い起こしたのは「これ『ひぐらしのなく頃に』の魅音と詩音っぽいな…」って感想。

 

少なくとも現代において、双子という特徴がそういうふうに描かれることには、視聴者・制作者に明確な悪意までは見出す必要はないが、「双子って・・・なんかすごい」みたいな、自分にはない未知の感覚とか羨望めいたものを見出す傾向にあるのかもしれない。

 

ただ、最近の作品ではこういう要素を描くことはあんまり好まれていないのかな?とも思う。双子の当事者からすればヘンなイメージを持たれることにもなるしね。

 

そんで、牛首村では「双子は縁起が悪いので7歳になると捨てる」という、双子の当事者にとっては極めて不快(いや、そうでない人も不快だろうけど)という伝説を加えている。これはやはり怖いというよりムナクソでは…?という話だ。

 

確かに日本では多胎児出生が「珍しい」部類に入る地域らしく、かつては「畜生腹」「忌み子」なんて呼ばれて片割れが間引きされたり里子に出されたりしたというエピソードはある。実際にあった話を怪談に組み込むことで、より不快感・恐怖感をもたせるという意味では成功だったかもしれない。ちなみにナイジェリアなどでは双子はむしろ崇拝の対象であるらしい。

 

しかし、双子を「牛首」と絡めるかぁ…という感じ。いや、倫理観とか道徳観とかもろもろをぶっ飛ばすと、間引きに際して牛の首を被せて「これは牛だ、牛なんだ…!」と罪悪感を和らげるってエピソードのほうが…なくもない…か?という印象はある。

 

正直、「牛首」じゃなくてよかったよねみたいなところがちょっと残念。忌み子なら忌み子で、そっちに全振りのほうがよっぽど怖かったかもしれんなーと。冒頭の温泉、ほとんど後半関係ないし。「牛首」という言葉の持つ怖さ・不気味さをもう少し活かせたらよかったかなとは思う。

まとめ

怖いというより悲しい話。ただラストはなかなか怖い。


あまり考えすぎると「調べたい欲」が止まらなくなると思うので、頭を空っぽにしてただ怖がろう。

 

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