やまねこのたからばこ

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【アニメ】「地球少女アルジュナ」には、「耳に痛い」からこそ聞かなければならない声がある。

※当然のことながらネタバレを含むので、未視聴の場合には閲覧に注意されたい。

だいぶん古い(2001年)アニメだけれど。

 

 

当時リアルタイムで視聴していた頃は、それほど印象に残らなかった。なにしろ明確な「敵」と戦う物語ではなく全体的に暗い展開のアニメであり、ヒロインがいわゆる「ヒロインっぽい」容姿やデザインでもない。そして全体を通して説教臭くて、爽快感がない。あまり名作アニメみたいな話の中で話題に上らないのもこうした理由かもしれない。

 

ざっくりとした展開は…主人公の高校生、有吉樹奈が事故で死線を彷徨った日、クリスという人物によって地球の環境負荷が限界であることを告げられる。樹奈はクリスから告げられた条件…すなわち、「ラージャと戦い、清め、この星を救ってくれるなら、もう一度命を授ける」を受諾し、不思議な力を得て復活することになる。
樹奈は言われたとおりラージャと呼ばれる化け物と戦い、暴走寸前だった原子力発電所を襲ったラージャを殺すわけだが…問題はここからで、クリスは「なぜ殺す。ラージャと戦えなどとは言っていない」と告げるわけだ。

 

これはこの作品のトリックみたいなもので、要するに「聞き間違い」とか「ディスコミュニケーション」みたいなところ。
樹奈は「戦え」と解釈したのだけど(実際劇中のセリフもそうなっている)、クリスは「清め、星を救って」と言っている。
クリスは言葉を発することができないため、樹奈に精神感応のような方法で声を伝えているのだが、それがこの聞き間違いを生む。

 

樹奈はその後も得た力を使ってラージャと戦い、都度撃破していくわけだが、実際ラージャはクリスの言うように、「殺してはいけない存在」だった。
ラージャは地球の汚れを浄化する、いわゆる「分解者」であったという寸法だ。
まぁ分解の過程で人間の設備だのにも被害が及ぶから、樹奈が勘違いするのも無理はない…まだ高校生だしね…。

 

それにラージャは明らかに異様で恐ろしい見た目をしている。確か、宮崎駿もそんなことを言っていたような気がするけど(記憶違いの可能性もアリ)、基本的に生命の営みってグロテスクな、気持ち悪いものに見えてしまったりする。他の生物の死体を食べるために群がる虫とか魚ってキモチワルイと感じるものだし、生命の誕生である出産シーンだって、覚悟がなければ卒倒モノだという人もいる。食べ物だったものが腐って土に還っていく様子は菌・微生物のはたらきによるものだけど、臭いし汚いと感じる。ラージャはそういう存在というわけだね。

 

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この作品で取り扱われたトピックとして、原子力発電、放射性廃棄物、遺伝子組換え作物、遺伝子汚染、薬剤耐性菌、原油分解細菌、農薬、水中出産なんかがある。

 

登場人物はそれぞれ樹奈に、「このままではいけない」という語りを繰り返す。語り手はクリスであったり、テレサであったり、「山のおじいさん」であったりするのだけど、面白いのは皆伝えようとしていることが相手に伝わらないというディスコミュニケーションを抱えていること。世代間ギャップだったり、ポジショントークみたいなテーマも隠されているのかもしれない。

 

「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな話と同じで、ある事象は必ず他の事象とリンクしている。たとえば、トキオがハンバーガーで身体を壊して生死の境を彷徨ったのは新種の薬剤耐性菌が原因だけれど、その薬剤耐性菌が発生した原因として、「山のおじいさん」の話にあるように、農薬によって病害虫への耐性を獲得できなかった野菜や、遺伝子組換え作物の存在がある。病害虫を抑えて栄養を付けさせる目的の農薬や遺伝子組換え技術が、反対に強い細菌を生み出したうえに野菜を弱くしたと。

 

じゃあどうしてそういう方法を使わず、放ったらかしの自然農法にしないのかって言うと、自然農法では大勢の人間が腹いっぱい食べられる量を生産できないし、効率が悪い。おまけに日本では種子が得られない作物を作ってる。こうなってくると、必ずどこかに歪みが発生してしまう。誰が悪いとかの話ではない。それぞれに合理的な理由はいくらでもあるし、「じゃあどうすればいいのさ」という現代人の反論だって、一概に否定するべきもんでもない。

 

ちなみに、農業の話、ハンバーガーの話、薬の話、水中出産で出てくるエピソードでは、地球少女アルジュナは「自然主義」を推しているのだなという印象を受ける。ただ、もちろん自然主義だけが絶対正解ともいえない。たとえば農業に携わったことのある人であれば、農薬がそうした危険をはらみつつも、リスクとベネフィットを比較した結果、「それでも使うべきもの」だから使っているという実情がわかるだろう。

 

だから、アルジュナ…もとい、劇中の組織「SEED」が絶対の正解であるというわけではない。それは、「地球の生態系の中の人間という存在の活動」として見るのか、それとも「人間が現代の水準の生活を守るための産業活動」として見るのかという違いがある。産業として見るなら、自然農法や薬を使わない治療、工業生産しない食べ物など論外だ。

 

ちょっと話が逸れるが、環境問題を語るときに、よく「江戸時代は理想的なエコ社会だった」なんて話がある。この時代はほとんどのものがリサイクルされていて、もちろん人糞なども肥やしとして使われていたし、布きれ一枚だって着物→普段着→布巾→おむつと次々ダウンサイクルして利用するという体制が整っていたというものだ。生み出す製品も基本的に土に還るものばかりであったから、現代のように産業廃棄物を埋め立てておわりということもなかったという論調なわけだ。

 

しかしながら、それは必ずしも正確ではない。確かにリサイクル体制やダウンサイクルは得意であった面もあるかもしれないが、エコであったかどうかは別問題だ。江戸時代はとにかく大量の木材を使用した時代だった。電気がないから灯火のために木材を調達することもあるし、「火事と喧嘩は江戸の華」というように火事が多く、焼け落ちた建物を再度建設するために大量の木材を使用した。結果、山が次々とハゲ山になっていったという。現代、人工林として大量の花粉を撒き散らしている杉は、ハゲ山となった場所に再度木材需要を満たすために植えられたものであるケースも多々ある。結局のところ、江戸時代はエコでクリーンな時代などではなかったという指摘もあるわけだ。理想郷などそう簡単にあるはずがない。

 

環境の話以外に、地球少女アルジュナではコミュニケーションについてもテーマになっている。冒頭で挙げたクリスと樹奈の会話ももちろんながら、樹奈の父親との会話がまさにそれだろう。

 

船乗りで、長年連れ添った妻と離婚することになった樹奈の父親が、再会した樹奈に金属疲労で船が裂けるという話をしたのも、おそらく「目に見えない傷が少しずつ付く」「ある日ポッキリ折れる」ということを伝えたかった、つまり、長い結婚生活の中でとうとう限界がきた、という趣旨のたとえ話をしたかったのだろうけれど、樹奈は「いつも仕事の話ばかり」と憤ってしまう。これもディスコミュニケーションかな。

 

現代のコミュニケーションは、「言いたいことをしっかり伝える」ことは重視されるし、「察して、はNG」という価値観がある。それはその通りだと思うし、言うべきことははっきり言うほうがいい。「察してほしい、は甘え」「忖度なんてするもんじゃない」というのも間違っちゃいない。だけれど、「相手の言わんとするところを察するべく、思いやる・慮る」ということが軽視されすぎているようにも感じる。「そんなこと言われてないから知らない・自分には関係ない」というスタイルが、なんとなく社会を分断しているような、人と人とのつながりが希薄になるような寂しさを感じる。

 

声を発することができないクリスの言葉を、樹奈は「聞こえたまま」に実行した。その結果、クリスの真意にはとうとう最後までたどり着けなかった。そのために日本どころか地球そのものの崩壊間近まで事態が悪化してしまったわけだけれど、「はっきり言わないのが悪い」という言説は、突き詰めるとこういう結果を招くのではないかな、と感じてしまうところ。自分の頭で考えることを放棄しちゃいけないよね。クリスも繰り返し「考えてみろ」「目あれど見ず、耳あれど聞かず、舌あれど味わわず、肌触れあわせど感じず…」と言っている。

 

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樹奈とトキオが先生の家を訪れる回も非常に見どころがある。先生は、教師としては平凡というか目立たない存在で、いつもクラスでは教科書で口元を覆い、ブツブツと話して必要なことだけを教える。しかし元々はアツい思いを持った教員だった。このエピソードだけでも引き込まれるものがある。

 

しかし、真に重要なのは、先生の家を訪れたうえでのトキオと樹奈の会話だ。SEEDやクリスが主張するような問題に対して、樹奈は「みんなで変わっていけば、世界はいい方向に変わっていく」と信じ、それをトキオに話す。しかしトキオは、「最初に変わった一人はどうなる?爪弾きにされるだけや。」と突き放す。

 

このトキオは非常にいい味を出していた。普段は明るく飄々としているからこそ、このトキオの一言は、樹奈の心に深く突き刺さる。自分が見てきた数学教師や山のおじいさんが、まさしく「一般的な社会」からは爪弾きにされた存在であり、彼らこそを正しいと思う樹奈もまた、トキオら一般の社会に住む人々からすれば異質な存在になってしまいかねない、という残酷なメッセージにもなりうるためだ。

 

「私たち一人ひとりの意識や行動が変われば社会も世界も変わる」いかにも耳ざわりのよい言葉なのだが、実際にそれを実践する人間は一握り、どころかひとつまみだ。そして、そうした行動を冷笑すること、あざ笑うことが「リアリストである」という価値観が存在していることも確かだ。世界は、人類はもともとそんなものだと、意識の高いことばかり言っていても、それはなんの役にも立たないのだと吐き捨てることこそが現実主義なのだとする価値観のことだ。本当にそれでいいのだろうか。現実に起こっている問題に対して、人類自身が「自分たちには解決できない、それが現実だ」と冷笑することが本当に正しい態度なのだろうか。

 

それにしても、原子力発電所の暴走、土壌汚染と海洋投棄、遺伝子汚染と薬剤耐性菌…これホントに2001年に放映されたアニメなんだろうか。日本や世界が辿ってきたここ20年ぐらいの歴史をそのまま予言しているのではと思うほどだ。もちろん劇中そのままの展開ではないけど、主要なトピックはほとんど人類が経験してきた。

 

出典:https://unsplash.com/ja/%E5%86%99%E7%9C%9F/g8MoQ8UqyWw

 

冷笑的に見れば、「文句や懸念を言うだけなら誰でも出来る」という反論になるのだろうけど。対案がないなら黙れ、を続けてきた結果、現代の日本のいろいろな歪みが発生してしまっていて、きっとそれは世界でも同じで、そういう世界でいいんですか。本当に、いいんですか。

 

まとめると、何度繰り返し見ても素晴らしいアニメだと感じた。