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【映画】「渚にて(エンド・オブ・ザ・ワールド)」静かな絶望と、降って湧いた希望と、ふたたびの絶望。

※当然のことながらネタバレを含むので、未視聴の場合には閲覧に注意されたい。

戦争が起こり、地球全土に放射能汚染が到達するという世界の終わり方。

自然現象とか隕石衝突とかではなくて、戦争の代償として放射能汚染でじわじわと残り2ヶ月かけて人類が追い詰められていく様子は、静かな絶望感を与えてくれる。

 

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一気に終末が訪れるのではなくて、徐々に追い込まれていくという中途半端な時間があることで、かえって人間は残酷にもなるし、モラルも失われていくんだろうなと思う。

 

軍人を責めても仕方ない、彼らが戦争を始めたわけではないのだから。そうわかっていても、一般市民の感覚としては軍人を責めたくなる気持ちももちろん理解できる。

 

それに、遅かれ早かれ放射能汚染が避難先に到達して、惑星上の人類が滅亡することがわかっているのに、今更人のことなんて気遣ってもしかたがない、モラルなんて守っても仕方がない、そして、そう考える自己中心的な人々が跋扈するようになったら、自分たちだけが禁欲的に生きることに、果たしてどれほどの意味を見出せるだろうか。


多くの人は、残りの短い人生、好き勝手に生きたっていい、と感じてしまうのも無理はないかもしれない。ただ、それってどうなのだろうとも思う。別に放射能がなくたって、人間の寿命は限られているのに。

 

そんななかで、降って湧いたような希望の欠片が現れる。
生存者がいるかもしれない。ということは、生存できる場所があるかもしれない。理論や理屈では、どう考えてもその場所で人間が生存できるはずがないのに。


それでもやはり人間がすべての希望を完全に失ってしまうことは難しく、希望を見出すことは実に容易いということか。これは人間の強さでもあるし、弱さと解釈することもできるね。

 

[出典]:https://unsplash.com/ja/%E5%86%99%E7%9C%9F/cEukkv42O40

そして、ようやく見つけたわずかな希望の欠片を、見なければそのまま希望として胸に秘めておけたものを、わざわざ近づいて確認してしまった。


結果、それが希望でもなんでもないことに気づいてしまう。最後の希望が裏切られるという一連のプロセスは、登場人物と視聴者の心理がリンクするよい描写だと思った。
「終末」に際して劇的な絶望や破滅が描かれないぶん、これこそがこの映画の見どころだと思う。

 

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仮に終末映画であるとしても、やはり最後に主人公かその恋人役となるどちらかの登場人物は生存するとか、あるいはほんの僅かな人々であっても、どこかに隠れて生き延びているとか、そういう陳腐な救いすらこの映画にはない。


だからこそ、あぁ、もしこの映画と同様の状況に陥ったとしたら、人間はこうして終わっていくのかという、ひとつの未来の形を見せられたような気分になる。

 

唐突に不可能を可能にするような技術は生まれてこないし、なぜか主人公だけは死なないみたいな「主人公補正」もない。ヒーローもいないし、最後の最後に人々があらゆる怒りや憎しみを捨てて手をとりあって穏やかに終末を迎えるわけでもない。

 

現実の人間とは、人類の終末とはこういうものかもね、という映画だった。