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【漫画】「望郷太郎」(1) 文明崩壊後の人々の暮らしは悲惨なものか?

※当然のことながらネタバレを含むので未読の場合には閲覧に注意されたい。

 

 

AmazonのKindle Storeを見ていてシブすぎる表紙に惹かれて購入。

ざっくりしたあらすじとしては…

イラク・バスラにビルを構える「舞鶴通商」のイラク支社長「舞鶴太郎」が主人公。
地球は氷河期に達し、北半球は歴史的な大寒波に襲われ、人々は次々と南半球に避難していた。
しかし太郎とその家族は移動手段がないため、舞鶴通商ビルにて「冬眠シェルター」に入り、この大寒波をやり過ごそうとする。

当初は「天候が回復するまで」として1か月程度を予定していた冬眠シェルターだったが、太郎が目覚めると、装置は「500年後」の日付を示していた。すでに建物内には一人もおらず、屋上から眺めるバスラの街は、雪の積もった無人の廃墟と化していた。

当然、自分以外の家族はとうにシェルターで死に絶えており、「管理室」にも人間はいない。絶望した太郎は死を選ぼうとするものの、日本に残してきた娘のその後を知りたいという思いから、日本を目指し一人歩き出すことになる…というもの。

 

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現代人の「サバイバル」は文明崩壊後にどれだけ役に立つかという疑問

さてさて、文明崩壊後の世界を描く作品で見どころとなるものの一つに、近代的なものがない場所でのサバイバルだろうと思う。

昨今ではアウトドアブームなんかもあったり、災害対策という点で防災グッズなんかもわりと普及していたりする。

なのだけれど、それは当然道具の目的として、恒常的に使用することは想定されていない。たとえば火種ひとつとっても、着火剤という消耗品があることを想定した作りとなっていることも多い。

 

[出典]:https://pixabay.com/photos/japan-island-nagasaki-kyushu-725795/

 

「望郷太郎」で描かれているように、完全に文明が崩壊して新たな物資が製造されなくなったなら、防災グッズやアウトドアツールのほとんどはすぐに用を為さなくなってしまうだろう。

太郎が実際に浸かっているシーンがあるのはファイヤースターター。これも使えるうちはいいが、やがて削れて使えなくなってしまうのだろう。あとは非常食としてのカンパンやフリーズドライ。これも新たに製造できなければ消耗する一方だ。

事実、しばらくはそれで賄っていたものの、太郎はやがて限界を迎えてしまう。

文明崩壊後はロストテクノロジーを使った原始時代となるのか

そんな太郎が、とうとう限界を迎え倒れたときに出会ったのが「パル」「ミト」という名の人間。

二人はいずれも馬に乗り、石器を使って原始生活を送っているように見えるが、身につけている服はジャージだったり、おそらく廃墟から拾ってきたのだろう鍋を使って調理していたりする。

バケツに水をためたり、アイスクリームの冷凍庫にお湯をためて風呂に入ったりと、その時代では「ロストテクノロジー」となっている製品を使った原始時代を送っているようだ。

現代風に言えばロストテクノロジーなんだけど、まぁ文明崩壊後にそれをどう利用しようがその時代の人の自由だ。今で言えば古墳やピラミッドが観光地化するのと似ているか。

それを当時はどう使ったのだろう?ということに興味を持つ人はいるかもしれないが、それそのものはそこまで重要じゃない、ということか。

原始時代は「死と隣り合わせ」な過酷なものだったのか?

舞鶴通商の支店長として、ビジネスの場面でバリバリ辣腕を振るっていた太郎は、原始時代の「不思議な気楽さ」について違和感を覚える。

日に2~3時間しか働かず、狩りや採集も気が向いたら、という程度。干し肉や野菜を十分に蓄え、あとはのんびりと過ごしている。むしろ日々ノルマや納期に追われていたビジネスマン時代のほうが、「死と隣り合わせ」だという人も現代には多いのかもしれない。

原始生活における「与える」ことの意味

このような生活において、狩りも何もできない太郎は、ほぼ一方的にパルとミトから「与えられるもの」を無償で受け取って生きることになる。現代人からすると、「働かずに食べられる」ことはうらやましく感じる人もいるのだろう。しかし、この「与える」という行動の持つ意味が、この作品にとっては非常に重要なテーマなのだろう。

食べ物、飲み物、着るもの、乗る馬などありとあらゆるものをパルやミトからもらう生活に、太郎はやがて居心地の悪さを感じ始める。

「おのずと力の差を見せつけられ、何もかも従わざるを得なくなる」ということだ。

そして太郎は、「人」であること、自分はただ与えられるばかりの「ペット」ではないことをパル・ミトに示すため、彼らの言う「祭り」に参加することになる。

この「祭り」というものの持つ意味は、彼らの死生観と大きく関わるものだったというわけだ。

でも実は、人から「与えられる」というのは、古代も現代もほとんど意味は変わってない。強い人が「与える人」であり、弱い人が「受け取る人」だ。現代で言えば、社会保障なんかがイメージしやすいけど、他にも、会社に属していれば給料を「与える」会社は強い立場であり、給料を「受け取る」従業員・労働者は弱い立場であるということだ。

まぁあとは、原始生活よりもさらに遡ると、動物では子どもが小さいうちは親が獲物を取って子どもに「与える」。子どもが自分で獲物を狩れるようになったら、今度はその子どもが産んだ子どもに「与える」。そうやって世代交代していくのが自然。太郎が当初、パルに「子ども」と評価されたのもそのへんと同じ理屈だろう。

「無料でほしい」「ただでください」という態度は、必然「自分は弱者である」と喧伝することになる。「弱者の保護」がある程度お題目として成り立つ現代社会でしか、そういう態度は通用しないということを、もう少し自覚したほうがいいと感じる。

 

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結論

祭りを終え、ミトを失ったパルと太郎は、とうとう日本を目指し東へ進むところで第一巻は終わる。

他にも人がいるのか、日本はどうなっているのか、その間にある国々・地域はどのようになっていて、そこで太郎やパルはどう生きていくのかが楽しみな一巻だった。

続きを読んだらまた感想を書こうと思う。